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寺院の歴史

円光寺の成り立ち
寺院の歴史

熊谷の円光寺説教所

明治の初期(明治6年~明治9年)、熊谷地方には、熊谷県という県がありました。
この熊谷県に明治7年(1874年)・第二代県令として赴任したのが、山口出身の楫取素彦(かとりもとひこ)という方でした。
この方は、同じ山口出身の吉田松陰とは敬愛しあう親友であり、松陰の妹・寿子さまと結婚し、熊谷県にも夫婦で来られました。

楫取素彦は2015年の大河ドラマ『花燃ゆ』にて取り上げられていました。

その楫取素彦・寿子夫婦が育った長州・山口県は浄土真宗の盛んな地域で、数多くのお念仏を慶ぶ人を輩出していました。
戦後間もない1948年(昭和23年)、埼玉県の人口が約213万人で浄土真宗本願寺派のお寺が県内全部合わせても10ヵ寺にも満たなかったのに対し、
山口県の人口は約150万人、本願寺派のお寺は600ヵ寺を超えていました。
このことからもわかるように、山口育ちの楫取夫妻にとっては親鸞聖人のみ教えを伝える浄土真宗は身近なものであり、また妻・寿子さまは浄土真宗のお念仏のみ教えを慶んだ妙好人であったといわれています。

楫取夫妻が熊谷に来た当時、生まれ育った山口の地と違い、浄土真宗のみ教えを伝える寺院・説教所・道場などはありませんでした。
自ら阿弥陀様様のお話が聞きたい、と同時に親鸞聖人のみ教えを広く伝えたい、一人でも多くの人にお念仏に出遇って欲しいと思っていた寿子さまは、この地に浄土真宗のご縁を結びたいと願い、楫取県令に浄土真宗の開教を勧めました。
 
当時の上武地方は民情も現代からみれば想像を絶するほど荒々しく、難治県とされていたらしい。
そこで楫取県令は、この地方を仏教により潤すことができたなら、民心もおのずから温和に赴き、政令も自然に行き届くなるであろうという思いもあり、寿子さまの願いを受け、浄土真宗本願寺派第21代・明如宗主を訪い、上武地方・熊谷県に浄土真宗の開教を願い出ました。

この結果、山口県より小野島行薫(熊谷市円光寺開基)や艸香唯道師(群馬県藤岡市西蓮寺開基)ら本願寺派の布教使が派遣され、熊谷をはじめとする上武地域に浄土真宗のみ教えを伝える群馬県藤岡市の西連寺・前橋市の清光寺・埼玉県熊谷市の円光寺等々が、はじめは説教所として建立されました。 こうして御縁をいただいて、明治9年(1876年)3月。熊谷に浄土真宗の聞法の道場・説教所ができました。

円光寺をはじめ、そのご縁のお寺のいずれもが、阿弥陀様のお慈悲を伝える浄土真宗のみ教えを自ら聞かせていただきたい、ひろく念仏繁盛するようにという楫取寿子さまの篤い願いを機縁として、出来たお寺であります。

  念仏の声が世界や子や孫へ、
     弘まりますように、伝わりますように

その後の円光寺

寺号 築地輪番

明治9年3月に説教所として開設された円光寺ですが、浄土真宗の御縁がなかった熊谷の地での布教は苦労を極めたとのことです。しかし、それらの苦労を乗り越え小野島行薫は酬恩社という結社の形をとり、埼玉・群馬での布教活動をしていきます。
大正になり、築地にあった円光寺が熊谷に移転という形をとり、それよりのち円光寺を公称することになりました。
この築地の円光寺は元和2年(1616年)、了勝が開基となり、江戸本郷に創立、明暦3年(1657年)明暦の大火により築地に移転、大正2年(1913年)に熊谷に移転ということになってます。

昭和20年(1945年)太平洋戦争終戦前夜、266人の死亡者を出した熊谷空襲によって円光寺も全焼し、坊守が防空壕へとお連れした御本尊さまや、いくつかのもの以外は灰燼に帰し、終戦後、戦災復興都市計画による道路拡張にかかったため、昭和31年頃現在地に移転しました。

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